星朱音さんの日記

案外、酒酔い日記と言える。

モノの見方で世界が変われば。

2024/3/23 am3:43 手書きの日記

 

人間はみんなクズだ。

でもいいところだってある。

そしたら、いいところだけ掬い取って愛せばいい。

そうできたらいいなあと思うのは、今日も眠れぬ夜を過ごして気が狂っているからなのかなあ。

 

ストーリーのアーカイブを見ていたら、素敵な瞬間ばかり刻まれている。それを見ていたら、自分のものの見方次第で世界は美しく変貌を遂げるんじゃないかしら。

 

私は忘れっぽいから、楽しい時間を記録する手立てとしてSNSを使い、SNSの偏ったものの見方には触れないようにすればいいと思った。

物事は良い側面も悪い側面も、そうじゃないものもどれもあるから。そう考えたら汚言症も少しマシになる気がする。

 

今日は良い夜だ。

 

人生の中で大事なものを3つ挙げて、と人に訊かれたとき、私は誰しもの1番である“私”を除いて、

友達・記録・パートナーと答えよう。

 

創作ができるほど私は自由な考え方を持っていないから、友達の次に記録が大事。

 

これからも写真、動画、文章、音楽、さまざまなものを使って記録していこうと思う。

きっといつか、全てを忘れてしまいたくなるそのときのために。

 

 

スピ話注意警報ビンビン物語

2024/2/13 am7:04

 

失うということは、得るということ。

得るということは、失うということ。

 

全ては制約と誓約、それが等価交換の原則。

 

だから失うことを恐れずに、きっとそれは何かを得てステップUP↑するための通過儀礼なんだと、未来の自分に託してみるしかない。

 

ここだけの話。

私の人生の5秒後、1時間後、10年後に起きる出来事は全てあらかじめ決まっていて、何も知らない私は何かに向き合うたびに一喜一憂しているだけで、最後はハッピーエンドが待っているから何が起きてもそこまで落ち込む必要はない(星朱音という名前が大吉だから)。というのが私の運命論的な人生観。

 

結構マジにそう思っているんだよ。

このデッカい宇宙に僕というちっぽけな存在が及ぼす影響なんて、規模からして限りなく0に近い1だと思うからね。むしろ影響を受けることは多々あるだろうけど。

 

だからこれまで通り時の流れに身を任せて生きていこうと思います。

 

因果応報も存在すると思うけど、それも含めてその血の運命(さだめ)なので。

 

「善く生きる」って一体なんだろネ。

 

 

 

 

 

場所が残ってないぜ。

 

細切れになったメモ書きが集まって、いつかちょっとした自省録になることもあるのかな?ねーか。なんて考えている午前3時。

 

嘘をついてることもあるから、

正直というものに憧れている。

 

正直で居ることは事実や正論で他人をぶん殴ることじゃない。ただ自分の気持ちに従って、好きとか嫌いとか思ったり、やりたいことを行動に移すこと。

相手が必要な行為の場合、それを受け入れてもらえるかは別問題。

 

だから受け入れてくれる稀有な友人たちが大切で大切で仕方がなくて、でも僕が彼らにしてあげられることなんて特にないから夜中に突然「愛してるよ♡」なんてラインを送ってしまうんですわ。シラフでね。(迷惑)

 

あーバカみたい。今友達と喧嘩してるんだ。

だから寂しい気持ちをインターネットに放出してるの。うんこひり出すみたいにさ。

 

俺はいつだってリアルだぜ!

いつか元通りに酒でも飲めたらいいな、という気持ちは俺のエゴだから多分叶わぬ夢。それもしょーがねーな。社会的に結構キチガイなことしちゃったし。

 

失うものあれば得るものも必ずある。

今夜はそんなところでいきましょう。

今日はゲロ吐かなくてよかった。

 

 

 

 

創作および表現について

2023/4/10 早朝

 

この世界の中で生きていて、ナニカに気が付いた人は「つくる人」になっていく気がします。

 

気づいたことをそのままの言葉で伝えることには特に意味がないと理解した人からそれを材料にしてなにかを「つくる」ようになっていく。遊んだり、伝えたりするために。

 

 

私はひとりひとり、ひとつひとつの存在には役割が備わっていると考えていて、

つくる人はそういう役割、

つくられたモノを享受する人はそういう役割なんだと思います。場面によっても役割はいつもあるし、どっちが凄いとか偉いとかの話じゃなくてニュートラルな意味合いで受け取ってください。

 

この世界には数えきれないほどの創作物がありますが、それぞれの良さを享受するのは、それらの良さに気づく人の役割なんだと思います。

 

万人にとって「素晴らしい!」モノだけが有名になっているわけじゃないのはみんな知ってると思うけど、有名になることだけがその創作物の絶対的価値ではないですよね。

資本主義社会で生きているとそこらへんの感覚が狂いがちな気が。

 

例えばコスパやタイパ的なことって実際あったら便利だけど、人間みんながみんな器用に生きているわけではない・というか私からすれば(自分も含め)不器用ながらも日々懸命に生きている人間が多い気がするから、そんなふうに手短にゲットした内容だけが純度の高い素敵なモノだとは思えないんですけどね。それが実際にできたらいろんないいモノに触れられる機会が増えて超イイけどね。それひとつだけをあらゆる取捨選択の判断基準にすることはあまりにも浅はかというかね。逆に、時間をかければかけるほどそれ相応のスンゴイモノができるとも思ってないけどね。

 

余談だけど、一個のことだけでなく他に選択肢をいくつか持っている方が豊かな感じがすることが結構多いです。仮に一個しか持ってなくてもその持ってる一個を大事にあたため続ける美しさもあたしは好きです。

 

余談だけど、たまに「もっとみんなもコレ(なにか)の良さ受け取ればいいのに!」と思うこともあるけど、それはただのあたしのエゴですね。そうやって勝手に我に返って普段通り勝手に楽しんで生きてます。

 

 

だから、大切なことはいつでもつくることやつくられたものを楽しむこと。苦しんだから生まれた素敵なモノもたくさんあるだろうけど、苦しむことすらも楽しんでつくれないとずっと作り続けていくことは難しくなるのではないかと思います。

 

つくるようになってから初めてナニカに気がついたという人も居ますね。それはとっても素晴らしいことだから、あたしも出来るだけたくさんいろんなモノをつくりたいです。

 

つくるという行為は表現のひとつでもあり、誰かにとっての(言うまでもなく自分にとっても)何かのきっかけにもなるすごい行動です。別に誰にもそれを知られなくても、誰からも「いいね」をされなくても個人的には関係ないと思います。つくるという行動は、呼吸をするのと同じこと。ようは当たり前のこと。

 

職業としてつくることをしている人は、時には何もつくりたくないのにつくらなければいけないときもあるだろうから大変なこともあるだろうけど、仕事というのは、というか仕事のみならず人生というものは常に楽しいことだけで構成されているわけではないのでね。※ワガママはいくらかわいく言っても通らないときがあります。

 

マジで嫌になったらなんでもやめてみればいいしね。

 

ちょっと残酷に聞こえるかも知れないけど、

「つくる人」に憧れているだけで、ナニカに気が付いているわけではない人がただ「つくる人」を目指しても、そういう人達が求めているような、「つくる人」が得た評価と同じモノは得られないと思います。

だって、そもそもつくる動機や目的が違うから。

 

同じ評価が得られないというのは、得た方が偉くて得られなかった方がダメという話ではなくて、逆も然りだ(どっちの側でも得るものも失うものも両方ある)から、他人から受ける評価なんて実際のところどっちでもいいということです。(「いいね」をもらって嬉しくない人は居ないでしょうけど)

 

つくるという行為はすんごいことであると同時に、さっきも言った通り当たり前(ふつう)のことだからネ。

 

「つくる人に憧れている人」がしんどいのは、本人的には自分は「つくる人」だから相応の評価を得たいんだけど、自分が思う「つくる人」と同じ評価が得られるわけではないから、

そういうときに感じたフラストレーションやコンプレックス的なことから他の創作物を否定したり、それを享受する役割の人たちを否定したりすることで自分を保っているようなフシがあるところですね。

 

ナニカに気づいてつくっているわけではないから自分だけが下せる「自分の創作物」や「それをつくった自分自身」に対しての絶対評価を信用できず、そうして相対評価に価値基準を委ねてしまった結果自分を保つために他のものを否定することに縋っている(ように見える)というか、事実から目を逸らしている(ように見える)というか。

何者でもない自分から出た、なんでもないような一言が、例えばそれがそいつの「売れない」ことの証明になっているという皮肉は興味深いというか。それはまさに身から出たサビであるというか。

 

「何者かになりたいのに何者にもなれてない現状」の最中でそれを受け入れられず苦しんでいる人たちは人間らしくてイイ!と思うときもあるけど、関わっていてもおもんないときもたまにあって、現在の私はおもんないと感じたらあまり深入りはしないようにしていますね〜。そういう人って他人に対してなんかスゲー攻撃的というか否定的なときが多いからね〜。だからおもんないっていうかね〜。

 

仮にそういう人が私のことは受け入れてくれたとしても、そのひとが「いいね!」ができる範囲が超限られているというか、それ以外の他のことに対しての受け入窓口が大変狭いというか、その人が(勝手に)くだしたいろんなことへの評価が色々キビシ過ぎて会話していて疲れちゃうんだよね。

 

あとどうでもイイけど、現在の私からしたら「自分が何者か」とか考えるよりもっとずっと昔から「君」は「君」だよと思うんだけどね〜。わかりやすいアイデンティティが見つからなくて不安になる気持ちもわかるけどネ。そーゆーのの原因って、だいたい現在までの人生に対する自分の中での納得感がないからなんじゃないかな〜って、自分自身悩んでた時期を振り返って思うよ。

 

ア、何度も言っているけれど、私は「売れる」ことだけが素晴らしいことだとは思ってないですよ。名や作品が「売れた」あとでしょーもないことをする人間も山ほどいるでしょ。

 

そーいえば過去も未来も両方とも、いつでも現在の自分がどんな方向にも変えていけるょね⭐︎(これは結構マジに)

 

つくるという行為が表現のひとつであることは変わりがないけれど、表現というのはクリエイティブ的なことに限った話ではなくて、日頃の自分の行動のすべては外界に対する表現ですよね。

 

大袈裟に言ってるんじゃなくて、例えば怒った人が普段よりドアを激しく閉めたときに生まれる音はその人が腹を立てていることの表現だし、相手が傷つかないように言葉を選んで会話をするのは優しさの表現ですね。ウルサイ表現も静かな表現も全部は表現です。(その表現によって表したいことが相手に伝わっているかどうかは別の話。)

 

要するに気遣いも表情も言葉も身なりもすべては表現なんですよね。

 

生まれたときから死ぬまでの間に、他のどの人間とも一生関わらない人なんて多分ひとりも?居ないから、せっかく今生きてるんだったら自分がアーティストであるとか一般人であるとか何者であるとか関係なくいろんな表現を楽しんでいこうと思いました。

 

 

ここに書いたことぜーんぶティーネイジャーのときの自分に教えてあげたいです⭐︎(そんときのあたしはこんなん言われてもただのウルセーババアのクソみてーな説教としか捉えず、なんなら自分が否定されたと感じてTwitterとかでシコシコシコシコあたしの悪口書きまくるだけで終わるだろーけどネ!)(爆笑)

 

だから、そんときのあたしに「ふーん。結構イケてるじゃん。」って思わせられるような何かをいつかつくってみせるのが今のあたしの夢のひとつデス。そう思わせるなにかは、別にあたしがつくったものじゃなくても日常の中にある表現でもいいね。

 

「年を取ることは贅沢なことだ」って少し前にとあるステキな大人の人に教えてもらいました。

年を取る=経験の母数が増えることだとしたら、共感できることもそれに応じて増えていく=「いいね!」できることが増えていく=楽しいことが増えていくってことだから、えーナニソレ超最高じゃん!うちもじゃんじゃん生きてこ!ってこの前思いました。

 

いろんなことを知ると、この世は善悪二元論で語り尽くせるほど単純にできているわけではないってことが段々わかって物事を簡単に否定できなくなりました。←これもいいことばかりではないだろうけど、現在の私は何かを否定するよりは肯定する方がだいたいいつも楽しいです。というかそもそもいろんなことに「いいね!」をするのに忙しくてわざわざ「よくないね?!」を見つける時間も、「よくないね?!」をする時間もあんまないのょな。(超幸せなこと)

 

 

アー今日は何して遊ぼうかな〜

とりあえずそろそろ寝なきゃな〜

 

今日も今日とて寝れ・ヘン突入。

まー寝れないなら寝なくても別にいいね!

 

 

 

 

 

五感を超えて繋がりたい

2023/4/6 早朝

 

 

 

私はそのうち自分の声が使い物にならなくなり、人と話をしたり歌をうたったりと、声や言葉を用いて自分の伝えたいことを外に表現できなくなる日がいつか来るんじゃないかと怖くなるときがあって

 

それに加えて(あらゆる病気は誰にでもいつでも起こりうるものだと考えている僕は、)ALS(筋萎縮性側索硬化症)という病気の存在を初めて知ったその日から度々自分がそれになったときのことを想像しては恐ろしくなったこともあったんだけど、

 

そしたらさ、そうなったとしても、今までの人生と一緒で何が起きても結局はそれを受け入れて生きていくしかないし

 

今の私にとっての病気は「100%不幸なこと」でも「絶対に治さなきゃいけないモノ」でもないから、このままウンコみたいな顔して日々繰り返しているウンコ以下のオワった生活を続けていったら多分今ある統合失調症以外にいつかなんかの病気になるんだけど、

 

(どうでもいいけど今後どういう病気になっても治療ってのをしないのかもってなんとなく考えてるんだけど、)(病気になったときの僕が決定することだからわからないけど、)

 

 

そんでそのときにさ、

e.g.僕が外の世界に対して自分の伝えたいことを伝える手段を失ってしまったそのときにさ、

 

たとえ指先の感覚がなくなっても、

たとえ「それな」と言葉で共感を示すことができなくなっても、

たとえ見つめ合うことすらできなくなったとしても、

「わかるよ」って伝えられるような、「わかるよ」って伝えてくれるような誰かの側でこの生命が呼吸をやめることができたらいいな〜って

 

それが私の理想の死に方です。

 

とっても静かで、穏やかな最期の瞬間。

「今までありがとう」と「またね」を添えて終わりたいです。

 

息を引き取るその瞬間を誰かに見守られてなくてもいいの。「人間はいつでもひとり」的な言葉たちに自分が救われたことって多分今まで一度もないんだけど。

 

エスパータイプではない僕が誰かとの間でてれぱしーが使えるようになるには、長い時間をかけてたくさんたくさんたくさんお互いのことを知る必要がありますね。

 

病気のみならず変化もいつでも起きるから、はいはいあのパターンねって経験則だけで判断するのではなく、(変化していく)相手の一瞬一瞬にその都度付き合うような覚悟や集中力も大事ですね。

 

日常レベルの認識論的にはさ、私の五感を通じて「私」と「他者(私以外の存在)」がその都度同時に発現するんだとしたらさ、さっきのマバタキで発現した「私」と「他者」は、次にマバタキをして発現した「私」と「他者」とは全くの別物である可能性がヨユーであるわけだからね。

 

 

だから伝えられるときにありがとうもだいすきもいっぱい伝えておきたいんだ、いろんなやり方でね。いつかそれが一切できなくなるときは必ず来るからね。

 

現在の僕の生活は相変わらず、さっきまで持っていた自分の常識では測れない出来事に塗れています。

 

鉄は熱いうちに打て、という言葉がありますが、僕の常識は人間2回目になってからはずーっとアチアチです。常識は熱いうちに打って打って打ちまくれ!全部、今のうち。

 

常識が崩される瞬間のもたらす驚きで、「恥ずかしくなったり病んだり咲いたり枯れたり」するのは楽しいです。濁りそうになるけど、むしろ純化されていくような。だから毎日がたのしいです。

 

物事は飽きないとやめられない、飽きたらやめてる。飽きるためには飽きるほどにやればいいし飽きるまでやり続けるしかない。

 

嫌なことはそこらじゅうにあるけれど、楽しいこともまたそこらじゅうに転がっている。

 

私はいつか、五感を超えて君と繋がりたい。

 

 

 

 

 

 

謝罪と感謝

2023/4/

 

 

バイト先でさ、コロナが原因の鎖国が解禁してから外国人のお客さんが1日に1組は必ず入ってくるくらい増えたんです。外国人のお客さんはコロナ前のラグビーのワールドカップ?かなんかのとき以来で、初めは慣れない英語での会話も相まってタジタジしてたけど最近は日本人のお客さんと変わらないテンションでコミュニケーション取れるようになって、日本人のお客さんたちもそんな感じでナチュラルに国籍関係なくみんなで会話することを受け入れてくれる人も多くて私はすごく嬉しくて。

 

東京で一番最高の場所だよ!

 

とか言ってもらえることも結構あって

実際最高かどうかはわからないけど、その言葉を私にプレゼントしてくれるくらい楽しんでくれて

 

1週間の東京旅行で2、3回あの店に来てくれるくらい気に入ってくれる人や、今回の旅行でもまた会いに来たよって人も居て

 

 

すごく嬉しいんです。接客って、というかもっと広げれば人と人との関わりって、国語の問題なんかよりもっと複雑で本当に正解がある訳ではないから毎日精一杯で

 

家に帰ってからアー今日のアレは完全に間違いだったって大反省することもあるし、どんなに気をつけていてもその場にいるすべての人をいつも心地よい気分になるよう完璧にアシストすることはできなくて

 

 

人間についての悩みって私の人生には常に隣にあったからいつも難しくて

 

人間関係で息が詰まりそうになったときに

気を楽にしてくれるのもまた誰かとの関わりで

 

ア、私人間の社会の中で生きてるんだ!

って毎日に近い頻度で気付かされるから

 

私も毎日に近い頻度で人間の気分で居られるんです。

 

今はバイト先の話で、外国のお客さんに焦点を当てたけどそれは“常連”と言われる日本のお客さんについても一緒で

 

限られた時間やお金をあの空間に使うために足を運んでくれるというのは当たり前のことではないよなと思って日々感謝しています。

 

 

私は基本一人でお店に立っているから、私に、少なからず働いている私に理解のある常連さんたちがいつも助けてくれて成り立っていて

 

そういうのが有難いです。

 

「お金払ってるんだからもてなせよ」という気持ちもわかるっちゃわかるんですけど、相互扶助的なコミュニケーションやお店、働いているスタッフに対するリスペクトは失ってはいけないなと、自分自身が「お客さん」の立場になったときに気をつけたいなとは思っています。

 

酒酔いでキチガイになるのもお互い様だから、なるべく自分の中での人間に対する許容範囲を広げたいですよね。

 

 

正解がわからない中で日々反省しながら居ると、また会いに来てくれるというのがひとつの答え合わせのような気がしてあのお店はすごく自分に合っている気がします。

 

友達と遊んだりするのもあまり自分からは誘わないから、プライベートであそぼー!って言ってもらえたり、それこそ私の働いているお店にふらっと飲みに来てくれる友達が居ることがすごく幸せです。

 

 

その一方で私は、誰かを傷つけながら生きているのも本当のことだと思います。私がキチガイのときに心無い一言を浴びせたり、リスペクトのない行動を相手に対して取ったり、そういうことを0にすることはできなくて、嘘を吐くときもあるし、ダメダメで

 

でも鬱ぎ込むことをせず人間社会で生きることを継続できるのは、私の謝罪を受け取ってくれたり、誤解を解くための時間や労力を私との間に割いてくれたりしてもらえるからで

 

そういうのも全部当たり前ではないなと

 

本当に全部、当たり前に貰えるものではないんだなと

 

やっとわかって、それがわかった今でもウンコみたいなことをしてしまう自分を0にすることはできなくて

 

ワーンてなるときはフツーにありますね。

ごめんなさい〜( ;  ; )

 

博愛主義ちっくなメンタリティになることは今までもあったけど、ゴメンナサイ。私博愛主義ではないです。

 

フツーに私に対してボケカスみたいな態度取ってくる人に対しては私も心の中でボケカス返ししてますし。お店に足を運んでくれるのは超超超超有難いことだけど、お客様が全員神様だとは思ってないです。スミマセン。(私にとってお客様が神様になる瞬間はたくさんあります。)友達に腹を立てたり、表面だけ見れば失礼な態度を取っていることもたくさんあるかもですゴメンナサイ。

 

いっぱい考えれば考えるほど「ありがとう&ごめんなさい」しかないですぼくには。

 

 

こんなところで懺悔や感謝を繰り返しても意味ないのかもしれないけど、この文章は私の懺悔や感謝の一部でしかないのでね。全部そうだよ、それはいつも私の一部でしかない。

 

その一部を拾ってそれが気に入らなくて、その人にとってはその一部がわたしの全部になることもあるから、気をつけたいケド、目一杯頑張っても「嫌いなモンは嫌い」は正しいし、それは仕方ないことだよね。

 

基本的に現在私の身近にいる人たちは私のことを肯定的に受け止めてくれているんだと思って生きてるけどね。

 

ネガティブだけどポジティブに生きてます。

そうやって生きていきたいです。

人にしたことは全部自分に返ってくるんヤ。

 

いっぱい書いてスッキリしたしギターの練習頑張るッス。そろそろやりたいこととできることを見極める時期だな〜。

 

 

 

 

 

 

 

大切なこと

2023/3/23 26:38

 


椎名林檎の乳首を捻り上げてマジギレされたいとか、峯田と明け方に不味いラーメン食ったあと2人とも機嫌が悪くなって喧嘩したいとか、大森靖子を何の脈絡もなく突然ぶん殴りたいとか、岡村靖幸とネカフェでエロいことしたいとか、フジファブリックの志村とカフェインで酔ったまま30時間話し続けたいとか

 


これまでそういうこと考えたことあるけど、今僕はヒルビリー・バップスの宮城クンと付き合いたいよ。

 


生き物が死ぬことなんてご飯を食べるのとおんなじくらい当たり前のことで、いつどこでどんな死に方をしてもソイツが死んだときがソイツの寿命(死ぬべきタイミング)なんだと僕は考えているんだけど、

 


今まで僕より先に生まれて僕より早く死んでいった人たちはもうその人生で、その魂がこの世界でやるべきことは全部やり切ったから、そのときに生命が呼吸するのをやめたんだろうと、きっとそういうときに人は死ぬんだろうと思っている。

 


はぁ。人が死ぬことはさ、当たり前のことだから。それは決して悲しいことではないんだよ。

 


ただ、もうソイツのあの歌声は聴けないんだとか、ソイツのつくるあの美味い飯はもう食えないんだとか、そういう風に「アイツとはしばらく会えなくなるんだ」っていう実感が湧いたときに切なくなったり寂しくなったりするんだよね。

 

 

 

「そんなに突然死ぬんだったらあのときあんなこと言わなければよかった」とか、「あのときもっとああしておけば」っていう後悔は、まだこの世で生きてる側の俺たちのエゴでしかないからね。

 


いつまで経ってもそういう風にしか人の死と向き合えない奴はもしもソイツがそのとき死なずに生き続けたとしても、自分の思い描く理想の通りにソイツと関わることなんてできないよ。

 


そんで誰かが死んだときに、「あのときああしておけば」っていう後悔が残ったんだったら、それは「ソイツの死」が私たちに教えてくれた大事なことで、

 


それを知ったウチらがこれから先も昨日と変わらず生き続けるんだとしたらおんなじように今日を生きている周りの人たちに優しく接していけばいいんじゃないの?

 

 

 

きっとそれしかできないよな。

そうやって死ぬまで生きていくしかないんだよな。

 


去年の2月の僕の自殺は、自分にとっては劇的な出来事だったけど、今振り返ってみたら2月や3月って死にたくなるような季節ではあるよね。寒いしなんか生ぬるいし、だからか分かんないけどなんとなくぼーっとしてしまうし。

 

 

 

もうすぐ宮城クンの命日が来るけど、彼はそれまでの人生で、もうその魂がその生命の中でやるべきことは全部やり終えたんだと思うよ。

 

 

 

僕が140錠丸呑みしても死ななかったのは、僕のこの生命に宿った魂には、まだこの世でやるべきことが残っていたから、あのときはまだ死ぬべきタイミングではなかったから今もこうやって生き続けているんだと思ってるよ。

 

奇しくも宮城クンが亡くなったのは23歳で、私が一回死んだのも同じ23歳のときでした。僕はラッキーなことに、前世の記憶を保持したまま人間2回目を生きる機会を得ているワケです。


あたしがやり残したこと、この世界の中でやるべきことってなんだろうって、毎日少しずつ考えながら生きている。

 

 

 

毎日を真剣に生きること、それには大変な覚悟が必要で、案外誰にでもできることではないし、私自身できてないときもあるけれど、なるべく自分の中で大切にしていることを、毎秒大切にしながら死ぬまで生きていきたいね。

 

 

 

「人生楽しんだもん勝ち」って言葉があるけど、

僕には「人生受け入れたもん勝ち」、の方がしっくりくるな。

 

 

今日が無事に終わり、明日も大好きなみんなに会えるからしあわせです。

有難う、そしておやすみなさい。