星朱音さんの日記

案外、酒酔い日記と言える。

創作および表現について

2023/4/10 早朝

 

この世界の中で生きていて、ナニカに気が付いた人は「つくる人」になっていく気がします。

 

気づいたことをそのままの言葉で伝えることには特に意味がないと理解した人からそれを材料にしてなにかを「つくる」ようになっていく。遊んだり、伝えたりするために。

 

 

私はひとりひとり、ひとつひとつの存在には役割が備わっていると考えていて、

つくる人はそういう役割、

つくられたモノを享受する人はそういう役割なんだと思います。場面によっても役割はいつもあるし、どっちが凄いとか偉いとかの話じゃなくてニュートラルな意味合いで受け取ってください。

 

この世界には数えきれないほどの創作物がありますが、それぞれの良さを享受するのは、それらの良さに気づく人の役割なんだと思います。

 

万人にとって「素晴らしい!」モノだけが有名になっているわけじゃないのはみんな知ってると思うけど、有名になることだけがその創作物の絶対的価値ではないですよね。

資本主義社会で生きているとそこらへんの感覚が狂いがちな気が。

 

例えばコスパやタイパ的なことって実際あったら便利だけど、人間みんながみんな器用に生きているわけではない・というか私からすれば(自分も含め)不器用ながらも日々懸命に生きている人間が多い気がするから、そんなふうに手短にゲットした内容だけが純度の高い素敵なモノだとは思えないんですけどね。それが実際にできたらいろんないいモノに触れられる機会が増えて超イイけどね。それひとつだけをあらゆる取捨選択の判断基準にすることはあまりにも浅はかというかね。逆に、時間をかければかけるほどそれ相応のスンゴイモノができるとも思ってないけどね。

 

余談だけど、一個のことだけでなく他に選択肢をいくつか持っている方が豊かな感じがすることが結構多いです。仮に一個しか持ってなくてもその持ってる一個を大事にあたため続ける美しさもあたしは好きです。

 

余談だけど、たまに「もっとみんなもコレ(なにか)の良さ受け取ればいいのに!」と思うこともあるけど、それはただのあたしのエゴですね。そうやって勝手に我に返って普段通り勝手に楽しんで生きてます。

 

 

だから、大切なことはいつでもつくることやつくられたものを楽しむこと。苦しんだから生まれた素敵なモノもたくさんあるだろうけど、苦しむことすらも楽しんでつくれないとずっと作り続けていくことは難しくなるのではないかと思います。

 

つくるようになってから初めてナニカに気がついたという人も居ますね。それはとっても素晴らしいことだから、あたしも出来るだけたくさんいろんなモノをつくりたいです。

 

つくるという行為は表現のひとつでもあり、誰かにとっての(言うまでもなく自分にとっても)何かのきっかけにもなるすごい行動です。別に誰にもそれを知られなくても、誰からも「いいね」をされなくても個人的には関係ないと思います。つくるという行動は、呼吸をするのと同じこと。ようは当たり前のこと。

 

職業としてつくることをしている人は、時には何もつくりたくないのにつくらなければいけないときもあるだろうから大変なこともあるだろうけど、仕事というのは、というか仕事のみならず人生というものは常に楽しいことだけで構成されているわけではないのでね。※ワガママはいくらかわいく言っても通らないときがあります。

 

マジで嫌になったらなんでもやめてみればいいしね。

 

ちょっと残酷に聞こえるかも知れないけど、

「つくる人」に憧れているだけで、ナニカに気が付いているわけではない人がただ「つくる人」を目指しても、そういう人達が求めているような、「つくる人」が得た評価と同じモノは得られないと思います。

だって、そもそもつくる動機や目的が違うから。

 

同じ評価が得られないというのは、得た方が偉くて得られなかった方がダメという話ではなくて、逆も然りだ(どっちの側でも得るものも失うものも両方ある)から、他人から受ける評価なんて実際のところどっちでもいいということです。(「いいね」をもらって嬉しくない人は居ないでしょうけど)

 

つくるという行為はすんごいことであると同時に、さっきも言った通り当たり前(ふつう)のことだからネ。

 

「つくる人に憧れている人」がしんどいのは、本人的には自分は「つくる人」だから相応の評価を得たいんだけど、自分が思う「つくる人」と同じ評価が得られるわけではないから、

そういうときに感じたフラストレーションやコンプレックス的なことから他の創作物を否定したり、それを享受する役割の人たちを否定したりすることで自分を保っているようなフシがあるところですね。

 

ナニカに気づいてつくっているわけではないから自分だけが下せる「自分の創作物」や「それをつくった自分自身」に対しての絶対評価を信用できず、そうして相対評価に価値基準を委ねてしまった結果自分を保つために他のものを否定することに縋っている(ように見える)というか、事実から目を逸らしている(ように見える)というか。

何者でもない自分から出た、なんでもないような一言が、例えばそれがそいつの「売れない」ことの証明になっているという皮肉は興味深いというか。それはまさに身から出たサビであるというか。

 

「何者かになりたいのに何者にもなれてない現状」の最中でそれを受け入れられず苦しんでいる人たちは人間らしくてイイ!と思うときもあるけど、関わっていてもおもんないときもたまにあって、現在の私はおもんないと感じたらあまり深入りはしないようにしていますね〜。そういう人って他人に対してなんかスゲー攻撃的というか否定的なときが多いからね〜。だからおもんないっていうかね〜。

 

仮にそういう人が私のことは受け入れてくれたとしても、そのひとが「いいね!」ができる範囲が超限られているというか、それ以外の他のことに対しての受け入窓口が大変狭いというか、その人が(勝手に)くだしたいろんなことへの評価が色々キビシ過ぎて会話していて疲れちゃうんだよね。

 

あとどうでもイイけど、現在の私からしたら「自分が何者か」とか考えるよりもっとずっと昔から「君」は「君」だよと思うんだけどね〜。わかりやすいアイデンティティが見つからなくて不安になる気持ちもわかるけどネ。そーゆーのの原因って、だいたい現在までの人生に対する自分の中での納得感がないからなんじゃないかな〜って、自分自身悩んでた時期を振り返って思うよ。

 

ア、何度も言っているけれど、私は「売れる」ことだけが素晴らしいことだとは思ってないですよ。名や作品が「売れた」あとでしょーもないことをする人間も山ほどいるでしょ。

 

そーいえば過去も未来も両方とも、いつでも現在の自分がどんな方向にも変えていけるょね⭐︎(これは結構マジに)

 

つくるという行為が表現のひとつであることは変わりがないけれど、表現というのはクリエイティブ的なことに限った話ではなくて、日頃の自分の行動のすべては外界に対する表現ですよね。

 

大袈裟に言ってるんじゃなくて、例えば怒った人が普段よりドアを激しく閉めたときに生まれる音はその人が腹を立てていることの表現だし、相手が傷つかないように言葉を選んで会話をするのは優しさの表現ですね。ウルサイ表現も静かな表現も全部は表現です。(その表現によって表したいことが相手に伝わっているかどうかは別の話。)

 

要するに気遣いも表情も言葉も身なりもすべては表現なんですよね。

 

生まれたときから死ぬまでの間に、他のどの人間とも一生関わらない人なんて多分ひとりも?居ないから、せっかく今生きてるんだったら自分がアーティストであるとか一般人であるとか何者であるとか関係なくいろんな表現を楽しんでいこうと思いました。

 

 

ここに書いたことぜーんぶティーネイジャーのときの自分に教えてあげたいです⭐︎(そんときのあたしはこんなん言われてもただのウルセーババアのクソみてーな説教としか捉えず、なんなら自分が否定されたと感じてTwitterとかでシコシコシコシコあたしの悪口書きまくるだけで終わるだろーけどネ!)(爆笑)

 

だから、そんときのあたしに「ふーん。結構イケてるじゃん。」って思わせられるような何かをいつかつくってみせるのが今のあたしの夢のひとつデス。そう思わせるなにかは、別にあたしがつくったものじゃなくても日常の中にある表現でもいいね。

 

「年を取ることは贅沢なことだ」って少し前にとあるステキな大人の人に教えてもらいました。

年を取る=経験の母数が増えることだとしたら、共感できることもそれに応じて増えていく=「いいね!」できることが増えていく=楽しいことが増えていくってことだから、えーナニソレ超最高じゃん!うちもじゃんじゃん生きてこ!ってこの前思いました。

 

いろんなことを知ると、この世は善悪二元論で語り尽くせるほど単純にできているわけではないってことが段々わかって物事を簡単に否定できなくなりました。←これもいいことばかりではないだろうけど、現在の私は何かを否定するよりは肯定する方がだいたいいつも楽しいです。というかそもそもいろんなことに「いいね!」をするのに忙しくてわざわざ「よくないね?!」を見つける時間も、「よくないね?!」をする時間もあんまないのょな。(超幸せなこと)

 

 

アー今日は何して遊ぼうかな〜

とりあえずそろそろ寝なきゃな〜

 

今日も今日とて寝れ・ヘン突入。

まー寝れないなら寝なくても別にいいね!