星朱音さんの日記

案外、酒酔い日記と言える。

創作①

2020/05/07

 

 

今日はある友人の話でもしてみよう。

 

彼は、彼というからには性別は男なのだが、今から思えば友達の少ない私にとってかなり親しい部類の人間だったように思う。

タバコも吸うし、大勢でいるときにはうるさかったけれど二人で話すときにはとても静かだった。余談だが大勢の前で寡黙を演じる人間は実際二人きりになると喧しくなるし、普段周囲に対して声が大きい人は二人でいると静かに過ごすという感じがする。彼は後者の方だった。

 

彼の家には何度か遊びに行ったことがある。何人かで遊んだこともあるけれど、二人きりで時間を過ごしても男女の関係になったことは一度もなく、私が部屋を散らかしても席を立ったときに快く片付けておいてくれたし、何より美味しいアイスコーヒーを淹れてくれるところが好きだった。

 

私は夏でもコーヒーとなれば好んでホットを注文しているが、彼のアイスコーヒーを飲むときは必ずお代わりをした。それくらい、不思議なくらい美味しかった。

 

そんな彼の家に、逃げ込むように避難したことがある。

人生で一番辛く悲しいことがあって、彼の家の最寄り駅に向かいながら「今日行ってもいい?」と電話したことを覚えている。彼とは頻繁に遊んでいた訳でもなかったし、私はそのとき断られたらどうするつもりだったのか全く考えていなかった。でも、私の急な申し出に対して、彼は戸惑いながら承諾した。その頃の記憶自体が曖昧だが、外は寒かったような気がする。

 

彼の家に向かう途中で有り金のほとんどを使って酒をたらふく買い込んだ。元より彼が大酒を飲むことは知っていたし、その時の私は自らの傷心を癒すために酒を飲むというありきたりな方法を選ぶほかに頭が回らなかった。

 

彼の家に着いてすぐに別の友人から電話がかかってきて再び外に出たりして、結局2,3時間が経ってから私の事情を説明することになった。アルコールに弱くはない私が、酔いたいときには必ず飲む赤ワインを片手に、流れに任せてあれやこれやと散々ぶちまけた。彼は黙って聞いていて、時々そうか、と心を痛めるような素振りをしながら酒を飲んでいた。

 

その晩はものすごく酔っ払った。多分、人生で一番酔っ払った。久しぶりに薬と酒を一緒に飲んだことがよく効いたのだと思う。すると私はそういうときによく経験する懐かしい感覚を取り戻して、その感覚を十分に味わった。それは右手が不自由になるような感覚、そして重力を感じてそれが重苦しい筈なのに、「これでいいんだ」という風な納得感が内から泉のように湧き出てくる感覚。そんなようなものを自覚した私は、それまで悲しい気分に浸っていたのに、途中から愉快な気分になった。文字通りに部屋の中を駆け回って、家中の家具に体のあちこちをぶつけた。私より随分と強い彼もかなりの量を飲んでいたと思うけれど、時々私が倒したり動かしたりした家具を直して、それ以外はベッドの上でじっとしていた。

 

 

いつの間にか夜が明け、体内のアルコール濃度が下がるとともに私の気分もどんどん下がっていった。そしてこのままだと耐えられなくなってしまいそうだったから完全に朝になったときに部屋の外に出ることにした。「どこに行くの?」そう訊かれて「コンビニ」と短く答えると、帰ってこられなくなりそうだから住所送っとくね、と私の携帯を持たせてくれた。コンビニに行く用事なんてなかったけれど、ふとこの重たい気持ちを昇華させるにはやはり自傷行為が一番だという直感が働いて、必要なものを買うことに決めた。

 

方向音痴な私は渡された携帯の地図を見ながら近くのコンビニを探し、ようやくたどり着いてカッターナイフと大きめの絆創膏に手を伸ばした。コンビニの店員は、睡眠不足と寝ずの宿酔で虚ろな目をして、その上物騒なものをレジに持ってきた私に訝しげな表情を見せたが、私はそれもそうだと客観的に納得し、そんなみっともない姿の自分に多少の恥を感じながらそそくさと店を後にした。

 

 

家に帰ると彼はまだ起きていて、「おかえり」と挨拶した。私は「ただいま」と答えて部屋の前にあるキッチンでビニール袋の中身を取り出した。すると彼は何してんの?と様子を見に来たが、私の怪しい挙動から今から起ころうとしていることを察して、「あんまり深くしちゃダメだよ」と言った。

 

普通の、というより今まで出会ってきた人たちは私のそういう場面に出くわすと「やめなよ」と即座に咎めたり、傷跡を見て「もうそんなことしちゃダメだよ」と牽制したりするのが常だったから、彼の口からそういう言葉が出てきて、ああ、この人もいろいろあったのかな、なんて思いながら彼の死角で自分の左腕に刃物の先を当ててみた。今までそんな対応を受けたことがなかったから、私の自傷行為に対する否定も肯定もしない彼の接し方が、この上なく有難かった。

 

もうそのときの自分にはリストカットの習慣はなくなっていたから、久しぶりの冷たい刃物の感触に気が滅入りそうだったが、彼がそう言ってくれた手前、ここは自分のためにも彼のためにもやっておいたほうが後が楽になると判断して思い切って右手に力を込めた。

 

肌色の腕に赤い線が入った。遅れて赤い液体が出てきた。心臓の鼓動が早くなり、指先が冷たくなるのを感じた。興奮の中に冷静が、冷静の中に興奮が目まぐるしく溶け込んで、私は黙々と作業を続けた。少し時間が経つと、人の床を汚したらいけないと尋常の頭を取り戻し、ティッシュペーパーを取りに部屋に戻った。そのときの彼が傷口を見せるようせがんだか、そっとしておいてくれたかは覚えていない。

 

止血して絆創膏を貼るだけの荒い処置をして落ち着きを取り戻した私は部屋の暖房器具のところに横になって、彼に薦めてもらった本を読んだ。するとあのアイスコーヒーが飲みたくなって、彼にお願いをした。彼は一つ返事で作ってくれて、それから彼の持っていた水タバコも用意してくれて一緒に吸った。

 

その後私はそれなりの時間をかけて書き物をしていた。

 

「何書いてるの?」

「んー、日記みたいなものかなあ。昨日の夜のことが珍しかったから記録してるというか」

「へえ。よくそんなに長い間書けるね。」

 

そんな会話をしてまた無言の中で二人別々の作業をして時間を過ごした。

そのあとはどうしてそうなったのか、突然もんじゃを作ろうということになって買い物に出かけて、私は古着屋さんでトレーナーを、彼は書店で料理の本を買って互いの買い物を楽しんだ。その後100円ショップで小さなもんじゃ用のヘラを見つけ、健全な気分の高揚は最高点に達した。

 

あの買い物の時は一瞬一瞬の何もかもが本当に楽しかった。家を出るのが遅かったからあたりはもう暗くなっていたけれど、世界が鮮やかに見える、という表現が当てはまるのはきっとこういう時のことを言うのだろうと思いながらのんびり帰路を歩んでいた。

 

途中に寄った駄菓子屋さんではひとり300円まで、という子供時代を懐古する遊びをしていたのに、簡単な算数もできない私が300円を大きく上回る会計になっていたことに二人で大笑いした。昨日とはうって変わって私の中は楽しさで満ちていて、そんな自分の急速な変化もおかしくてずっと笑っていた。家に帰ってカードゲームのように駄菓子を床に並べ、どうでもいいことを話しながら懐かしい味を楽しんでいると二人とも腹が満ちてきて、もんじゃは明日作ろうか、と言うことになった。

 

 

それから結局いろいろあって彼とはそのまま会うことはなかった。あの小さなヘラを使ってもんじゃを食べることも叶わなかったし、500円で買ったかわいいぬいぐるみも彼の部屋においてきたまま、連絡を取ることができなくなってしまった。

 

当時の私はバランスが取れていなかったから、今思い出して書いたこの記録についても自分の記憶が疑わしい部分は少なくない。しかし、例え一部が事実と違っていたとしても彼と過ごしたあの日は私の中で鮮やかなものとして残っている。弱い者に対する理解の深さにあの時の私は救われたし、私がどれだけ嬉しかったかなんてこの長い記録を見れば明らかだ。いつも自分のことを責めていた彼はきっとこの文章を読めば心の中で小さく喜ぶと思う。まあ、これを読ませる方法はもうないし、例え読んだとしても少々面倒臭いところのある彼は読んだことがないフリをするのだろうけど。あのアイスコーヒーは二度と飲めないけれど、彼との記憶を楽しいものとして止めるためにはこれでいいのかも知れない。元気に過ごしているといいな。