星朱音さんの日記

案外、酒酔い日記と言える。

日本語不自由なときの記録

2018/5/20

 

 

 

ある友人から「◯◯(私)の優しさに涙が出た」、というメッセージが届いた。

 

なぜ優しいと言われたのか。

その理由はわからない。自分の外側に存在する世界にとって、自分は他人からそう思われる人間ではないと確信していたから。

 

言うまでもなく内側にある虚栄心や狡猾さ、偽りには気付いていた。人間の性質として、100%の同意ができなければ、私はそうであるか・そうでないか、の一方に傾くことができなかった。

 

盲目になってしまわないように常に最新の注意を払っていたから、仮に一次的であったとしても、自分についての形容で100%同意できるものがあったかどうかすら定かではない。

 

疲れた頭に浮かぶ物事を自分に当てはめようとすると、「どちらでもない」人間になってしまったことを痛感する。思えば、なんらかのアンケートに回答する場合でも、たいていは「どちらでもない」の項目を選んでいた。

 

それから世の中の自己紹介というものは、「自分はこういう人間です」と人様にアピールする場ではなく、他人からこう思われたいという願望の煮詰まった気色の悪い自己暗示だと思っていた。今でも自己紹介を苦手としていることに変わりはない。幼い頃から親に言われ続けた「上には上がいる」という言葉、これに付き纏われていることもあらゆる自分を認められない根源的な原因の一つだと分析している。

 

あと1週間で成人を迎えるというのに、依然として「これが私の趣味です」と自慢げに宣伝してみせる程度の趣味も勇気もどちらも持たないままだ。

 

同様の理由でアイデンティティという言葉も好きになれずにいる。初めから個々の全ては世界に一つだけしか存在しない筈だ。にも関わらず、例えばその一つがなくなっても代わりになるものはいくらでもある。だからわざわざ私が宣伝文句としてアイデンティティを公言する必要もないのだった。

 

私は毎回どちらでもない、言い換えれば自分を持っていない、故に中身も常に空っぽな人間。概念と呼ばれる面倒臭い便利な言葉を用いれば、これが私のアイデンティティに関する概念なのかも知れない。全く気に食わない話だが。

 

先ほどの「優しい」についての話に戻るが、ここまで定義づけを忌み嫌う私でも、最近ようやく他人の評価も(外部から見た)事実の一部なのだということに気付き始めた。

 

むしろ証拠があれば人は簡単に話を信用するように、逆に人間の世界では証拠がなければ何も信じてもらえない場合の方が多いように、信念を持って別の部分に盲目的になれば、ある出来事はその人にとっての事実になるのだ。

 

 

幸い相手は今日の私の対応の中に不信を見つけなかったから、「優しい」との評価を与えたのだ。何故ここまで猜疑心に塗れた人間がそのように断言できるのか。それは今日の行動を振り返った時、「私は目の前の人間のために優しいことをしてやっているのだ」という自意識を全く保持していなかったからである。これは自信を持って言えることだ。自己紹介程度のエゴイズムにもうんざりするくらいだから、もうずっと前からそんな自意識は持っていなかったに違いない。それでも今日の私がそういう汚いエゴを持っていなかったことは確実だ。ここまで判然と主張しているとだんだん本当にそうだったか自信が失われてくるから、この辺りでやめておく。

 

とにかく私が思ったのは、広い意味での嘘たちが一つもバレなければ、相手が実際にそう感じたのだから、私はそういう部分をもった(ように見せることのできる)人間かもしれない、ということだ。ただし、これはあくまで可能性の話に過ぎない。「他人の評価」とは常に流動的なものだから。つまりは四季以上に、もっと言えば雲以上に素早く、時になんの前触れもなく、時にこちらが一切の兆しに気付くことなく変化していくものだからだ。

 

 

今日の相手である友人が、私にとって些細な存在であったことは容易に想像できるだろう。私というのは、気に入ってしまった人間ほど避けたい衝動に駆られる、少々おかしな人間なのだ。