星朱音さんの日記

案外、酒酔い日記と言える。

メモの公開

 

 

2020/5/1

 

私は基本的に堕落を好む人間である。寧ろそれが行き過ぎて、自堕落に過ごすことこそ美徳という心構えを持って生きているような仕様のない人間なのだが、普段と違うやり方で講義を受ける新鮮さに励まされ、就寝時間が何時であろうと毎朝9時には起床し、10時からその日の授業に関わる作業に取り組み始め、昼飯を食ってまた作業に取り組む、という模範学生のような生活を送っている。

 

 

飲酒や喫煙の量は増えたがそれ以外の暮らしは実に健康的で、4月の前半から起こった精神的な発作もだいぶ良くなった。初夏らしい爽やかな気候がそうさせているのだろうか。

 

今度の異常は例によって「勝手な主観」が暴走することで始まった。便宜的に主観という言葉を用いたが、これは私の人生にとって非常に厄介なものの見方のことで、幼少期から18歳まで頭上の右側に絶えず意識されていた、文字通り目の敵であった。

 

 

説明するのに必要な苦労を計算すると今から挫けそうになるが、これが私にどのような不具合をもたらすのか、勤勉な学生らしく記録に残してみよう。

 

簡単に言えば「勝手な主観」は私の健全な視界を奪い、森羅万象を、目を塞ぎたくなるようなおぞましいカタチに変えて写すのである。私はこれを「アレ」と呼んでいるが、この謂わば不快極まりない色眼鏡(本当にただの色眼鏡であれば楽なのだが)は適切な思考や美醜の感覚を鈍らせ、私を人間不信に堕ち入らせる。一度右上のアレに支配されてしまうと、他人の声や行動の裏に常時悪意を見出すようになり、その見出した(場合によってはまやかしでしかない)悪意こそ相手の真意だと信じて疑わないようになる。この現象は往往にして、対人関係がある程度の時間を経て、互いの事情を理解し始めた時に起きていた。アレはこの世に存在するあらゆる醜さを養分に、私の頭上で成長していた。

 

 

当時の日記や記憶を遡れば19歳の途中から右上の物体的な威圧感は薄れ始め、20歳も半ばに差し掛かるとアレの存在を意識することもほとんどなくなった。梅花の綻びるように極自然に、静かに、しかし確かに訪れた解放の時分。ああ、随分と長かった。私は自分の身が軽くなり、今後は人並みに生きることを赦された手応えを感じた。しかしささやかな心弛びも束の間で、結局私は右上の彼奴との関係が完全に断ち切れた訳ではないことを思い知らされる。アレは忽然と姿を消したのではなく、実際は右上から私の内部に侵入していた。あの凶悪な洗脳の力を以って、私の視界を、道徳心を、人間性を侵すことができなくなった代わりに、腹部の深いところで憎悪の念をまとった蜷局を巻き、私の体を突き破って外に出る機会を今も虎視眈眈と狙っている。

 

 

この右上にいた主観、言い換えれば以前は体の外にあった厭世的な心的傾向が私の体と一体化し、つまり私のものの見方を構成する要素として完全に私に備わってしまったせいで私は新たな問題と対峙しなければならなかった。

 

前述したやり方で彼奴の能力が私を脅かすことはなくなったが、今度は私に嫌がらせをするようになった。尋常の私は丈夫に生きられるようになったのに、ふとした時に腹の中から顔を覗かせているのに気がつく。アレを呼び寄せる条件やタイミングが判然としないもどかしさは、私の求める軽やかな生活にイヤな影を落とす。

 

私と他者との関係を邪魔する動きは以前と変わっていないのだが、上から下に降りてきた後では直接手を下すことはしてこない。することと言えばただじっと、腹の中でこちらを見ているだけである。たったそれだけのことなのに、私はアレの視線を感じるとたちまち気がヘンになってしまう。

 

これまでは他者との関係で問題が生じたときは、①自分の傲慢さが招く場合と、②アレに支配されることによってそうなる場合とで分けて反省していた。前者は相手と再び仲を戻して今まで通りに仲良くなれる可能性が高いのに、後者の場合は修復不可能に至るまで、徹底的に私と相手の仲に溝を作る。しかし今の状態は②を①が包括する形になってしまい、自意識の範囲外で起こった諸問題も全て①の自分のせいだと考えることしかできなくなった。

 

 

私以外の人にとって右上の彼奴と私自身の振る舞いに差はなく、どちらも私の言行として認識されているから、対外的な障壁が新たに生まれた訳ではない。しかし自分の範囲とアレの見方との違いが位置の変化によって感覚的に区別できなくなったため、受け入れたくないことの責任も自分で負わなければいけなくなったのである。これは大変残念な運命だ。

 

そういうわけで初めに述べた4月の発作が起こったときにもその原因は自分にあるのだと認めなければならず、それが二重に私を苦しめることとなった。

 

 

しかしそんな発作もひと段落つけば忘れてしまうのである。現に今私は私自身としてこの文章を書き綴っているし、そうやって彼奴と自分との関係について考えているときにアレ自体が存在をアピールしてくることはない。

 

記録をしていないから見えてこないだけで、もしかすると決定的なリズムがあるのかも知れない。今は余裕があるからこのように強気な態度を見せられるが、もし次にこういう気分の混乱に見舞われたら、リアルタイムで状況を記録することによって新しい発見が得られそうだ。